マリアモンテッソーリについて

マリア モンテッソーリは、1890年イタリアのアンコナで生まれました。 12歳のとき、両親はローマに移り、マリアを教師にすべく育てました。 その当時、教師が女性に開かれていた唯一の職業だったからです。 マリアは最初、数学に興味を示し工学を志しましたが、次第に生物学に興味が移り、最終的には医学部へ進学を決意しました。

 

1896年にマリアは、イタリアで最初の女性としてローマ大学医学部を卒業し、ローマ大学付属精神病院の助手になりました。彼女の仕事の中には精神病院に収容されている子供たちを診るしごともありました。 そこで特別な教育を施すことによって、精薄児が十分発達しうることを確信するにいたり、イタール、セガンといった教育学の先駆者の業績を研究しました。

 

1898年、マリアは公立の精神薄弱児学校の主任に任命されました。 そこで2年間、子供たちと共にすごしました。 その2年間はマリアにとって、まさに、”真の教育学の学位“だったと述懐しています。 そこでマリアは、子供たちが今まで不可能と思われていたようなことを、数多く学ぶことが出来るのを目のあたりにし、後世を教育の分野に捧げることになったのです。

 

マリアは再びローマ大学に入学し、哲学、心理学、人類学を学びました。 その傍ら女子師範学校でも教鞭をとり、またローマの診療所や病院で診察をしながら、自ら開業医として実務に当たりました。 

 

1907年マリアは、イタリアのサン・ロレンツオというスラム街に、住宅計画の一環として作られた保育施設の管理を依頼されました。 3歳から7歳の子供たち60人を、文盲の両親が働いている間、世話をしなければなりませんでした。 施設の備品は粗末なもので精薄児に用いていた感覚訓練のための教材が、唯一の教育的備品でした。

 

マリアによると、この時、彼女には特別な指導法は何もありませんでした。自分が作った教材に正常児がどう反応するか、精薄児の場合と比較したいと思っていました。

出来る限り自然な環境を作り自らはそこで何が起こるのか観察することに徹しました。まず教師に感覚訓練のための教材の使い方を指導してから、マリアは後ろで子供たちの観察をしました。

 

マリアは始め、読み書きに関する活動を、子供たちにさせるつもりはありませんでしたが母親たちが熱心に頼んだため4, 5歳児に砂文字をつかってそれを指でなぞらせました。

その中から何人かの子供たちが文字と音を結びつけはじめ、音を口に出して言うようになり、1つの言葉につなげました。 子供たちはすぐに自分たちで書くことも覚えてしまいました。ただ自分の書いた言葉は読もうとしましたが、他の人の書いたものには興味がありませんでした。 しかし、子供たちは書くことに熱中したときと同様に読むことにも熱中し始め、道路標識や店の看板といった周囲のあらゆる文字を読み始めました。 最初、子供たちは本には関心を示しませんでしたが、ある日1人の子が、他の子供たちに破れた本のペイジを見せ、そこにお話が書いてあるといって読んで聞かせました。 このとき初めて、本というものの意味を理解したようです。

 

子供たちはエネルギーの爆発とも言えるような勢いで本を読み始めました。 それは以前自分たちの周囲で目にした言葉を、手当たりしだいに読んだり書いたりしたときに示したものとまったく同じでした。 その過程は次の3点において興味深いものでした。

 

1. 活動を自発的に促したものは、最初から子供たちのそばにあったということ。
2. 読んでから書くという通常の家庭の逆が行われたということ。
3. 活動を行った子供たちが4、5歳児であったということ。

 

子供たちがこういった成果を上がるのを観察していたマリアは、子供たちの行動に関して今まで知られていなかった、重大な事実を発見したと実感しました。子供たちのあげた成果を普遍的な真理を示すものとみなすには、異なる条件で子供たちを学ばせ、同じ成果を上げる必要があります。その目的のために、2番目の学校が1907年にサン・ロレンツオに開けれ、1908年には3番目の学校がミラノに、4番目の学校が恵まれた家庭の子弟を対象としてローマにひらかれました。 1909年までにはイタリア領スイス全土の孤児院や子供の施設で、モンテッソーリの教育法が用いられるようになりました。

 

モンテッソーリの業績は急速に広まり”すばらしい子供たち“をこの目で確かめようと世界中から見学者がモンテッソーリスクールを訪れました。 モンテッソーリ自身も世界中を旅し、モンテッソーリスクールや教員養成所を設立したり、講演したり、執筆したりという生活を始めました。 彼女の研究を最初にまとめたものとして1909年にモンテッソーリメソッドが出版されています。

 

1912年モンテッソーリは初めて米国を訪れ、短期間の講演旅行を行いました。 この時アメリカモンテッソーリ協会が、アレキサンダー.グラハム.ベル夫人を会長として、ウイルソン大統領の娘であるマーガレット. ウイルソン女子を書記として結成されました。
米国での歓迎に応えて1915年にも再び訪れ、カリフォルニア世界博覧会にモンテッソーリの教授法も出展され、大いに注目を浴びました。